(改装中)土の中からじっと見る

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後悔を持って死んでゆけるのが理想かもしれない

「極める」というのは一心に学んでいる状態そのものを指しているのだと思う。現実に「よし、自分はこれを極めたぞ!」と思う瞬間なんて有り得ない、というかあったらまずい。

私にも好きなこと・まあまあ長く続けてやってきたことはあるけど、万が一「よし、極めた!」なんて確信する瞬間が来てしまったらもう終わりだ。その分野において前進も後退も二度と出来なくなるのだから死と同等。

自分が関わる全てのことを、まったく同じ熱量で全く同じ分量でやっていくことは残念ながら不可能だ。「これをやっていたらこれがおろそかになった」「AとBとCはできたけどXやYはぜんぜん……」というのもそりゃ当たり前な訳だ。

なら、死ぬ前に「ああ、もっとあれをやっておけば良かった」と思うようなことがあるのは、他のなにかには熱中できていた証拠なんじゃないか。普段意識していなかったとしてもよくよく考えたら、そういえばこれはずっと好きだなぁということのひとつやふたつ出てくるはずである。

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自分自身を例にあげると、本を読むことは好きだけど運動は好きじゃない。たいした興味もない。健康のために少しはやっとかないと…くらいのもん。人の密集するところで具合が悪くなるからスタンディングライブも避けているけれど、座って鑑賞できるものなら好きだ。

でもたぶん、いやほぼ確実に、歳をとってから「ロッククライミングとか富士山登頂とか挑戦してみたかった」「ホノルルマラソン完走できる人が憧れだった」「あのパンクバンドを一回くらい生で鑑賞しておけばよかった」とか、たくさんたくさん後悔するだろう。

じゃあその時、私がしてきた読書や映画やコンサート鑑賞の体験に価値はなくなるのか? いやいやまさか、そんな訳がない。

だからやっぱり、「こればっかやってたからこれは全然できなかったなぁ」って思いながら死んで行ける人生がいいよなぁ。寿命が今日なのか数年後なのか何十年後なのか分からないなりに。

そう思ったので書き留めておくことにしただけの更新です今日は。