私は日本以外の、違う国が故郷らしい

夫の知人の経営者さんに勧められて、夫婦で占いに行って来た。

占いというか『鑑定』って言った方がイメージ伝わりやすいのかな。仕事鑑定とか家相鑑定とかそういう系統です。
(私の知る限り、経営者さんや成功してる自営業の方は信心深い人・風水やスピリチュアル的価値観を大事にする人が多い)
  
算命学とか四柱推命の、東洋系の占い。
夫婦を鑑定してもらう内容だったので、個人のことというよりも主に二人の将来のことや、二人で氣を付けた方が良いことなどを見てもらった。

 

『夫がカナダで仕事したくて
 
いまのところ三年後に行く計画になってて
 妻の方はどこでもついて行くから好きにしていいよ〜って感じ』


という話をしたところ

その流れで言われたことが、だいぶ衝撃的だった。
(ちなみに夫は今の業種が天職だそうで。良かった)

f:id:mmee1818:20190813125025j:plain

 
「奥さんこそ海外に縁があるのよ。
 だからこの奥さんならどこにでもついて来てくれるわよ。
 というか奥さん日本人じゃないもの。外国人だもの」
 
私&夫「!?!?」
 
「日本に住んでる限り、本当の夕暮さんは絶対に出てこない」
 
私&夫「そのレベルで!!!????」
 
「全然違う国の人で、日本の水が合ってないのよ。
 ちょっとこれは可哀想になるほどだわぁ。 
 日本を出たとたんに、本来の夕暮さんになって
 まったく別人みたいにアクティブに、フレンドリーなあなたが出てくるのよ」
   
夫「えっ、今とぜんぜん別人って……
  それめっちゃ見てみたいなぁ、楽しみだなぁ」
 
私「私にとって(日本以外の)あの国がいい! とか
  決まってるってことではなく…?」

「そういうことではないの。
 日本を出ると決めて、住むことになるその国が、夕暮さんの故郷(ふるさと)よ。
 そういう風になってる。
 だから、ふるさとに帰っていいのよ」
 
 
私にとっては移住=『ふるさとに帰る』になる。

そう言われた瞬間に泣きそうになったので、あーこれは、本当にそうなんだろうなという感覚。 
 

f:id:mmee1818:20190813122946j:plain



「違う国に行ってもわりと上手く暮らしていける」ぐ
らいなら自覚あったんだけど
「日本にいる限り本来の姿が出てこない」のレベルだとは考えたこともなかったな。

そうかー、私はまだ自分でも全然知らない、今はまだ想像もつかないような性格(?)を持ってるのか。

 

いや〜面白かった。
自分の人生の色んな要素がさくさくハマって、納得の行く形になっていくので、パズルみたいで 笑
  

 
唯一納得しかねているのは
私は本来なら、肉体そのものを使うアクティブな職・多くの人と関わるような職が天職らしいということ。

つまりスポーツ選手とか消防官とか警察官とか武道家とか。

正直、「えっ、こんなに運動とか根性とかが大の苦手なのに!?」と思った。

体育の授業ほんとに全部下手だったしなぁ…

 

あと一見運動っぽくなくても、営業マンなんかも当てはまるらしい。足で直接動いて稼ぐ・ひとところにいない・外出して動き回る・多くの人にプレゼンするといった点で。

正直、「えっこんなに出不精で、電車でもバスでもしょっちゅう酔うのに!?」と思った。 

 

まぁでも、日本にいる限り本来の自分が出てこないというくらいだから
カナダに住み始めたとたんに、サーフィンとかトレイルランとかホームパーティとかに目覚めるのかもしれないね 笑

 

毒親というのは暴言や暴力が趣味で、好きでやってる人だから、そのまんま尊重してあげればいい

とある漫画を読んだら、なんとも自分と似た境遇の登場人物がいたので。

『ちょっと重ための過去を持つキャラ』にこの手の境遇が設定されていることは珍しくもなんともないけど、うっかりぶわーっと思い出すのはまぁまぁ辛い。

 

そこで、ここ数年ずっと思っていることを一回整理しようと思う。

 
数年前のある日。今回記事タイトルにしたそれを、突然確信した瞬間があった。
家族の中にサンドバッグを作って、常にあら捜しをして、毎日悪口を言って、怒鳴って殴って…というあの手の毒親的行為は
あくまでも、本人が好きで、楽しくて、必要として、やってるんだと。

 

表面で見える範囲では、怒ってたり顔を歪めていたりするから分かりにくいんだけど。

あれは単にそういう趣味で、本人の大好きなことに真摯に取り組んでいる最中なんだと。
 

私は個人的に、他人の趣味を面と向かって否定する権利なんて誰にもないと思っている。

といっても、私主観で私個人の感覚で「キモい」「理解できん」と思ってしまうものはあるにはある。だからこそだ。
それを平気で表に出すということは逆に、私が誰かから「本読むのが好きなインドア趣味とかキモい。意味わかんない。異常者なんじゃないの?」とか言われても何も文句は言えないと思うから。

   

自分がヘイトや偏見のような行為をやるのなら、

そういった存在否定の理屈そのものを許容してしまうのなら、

もし他人が同じ理屈を私にぶつけてきた時、自分もそれを許容してきたという因果を引き受けなければならなくなる。

 

私には「自分は他人に言うけど他人が私に言うのは許さない」とジャイアニズムを貫けるほどの器はない。(貫ける人はそうすればいいと思う)

なのでシンプルに「自分がやられたくないことは人にやらない」を選択する。

他人を傷つけないためとか、平和な世界のためといった優しさゆえに…ではない。むしろすごく個人的なことのため。

私にとっての守りたいものや、私にとっての戦わなくてはならない瞬間のためだ。

そういうのは人それぞれ違っているから、皆で同じものを守って皆で同じものと戦いましょうというのは、生き物の仕組みとして不可能だ。

   

だから家族の悲劇というのは

『家族なのだから』『血縁なのだから』

当たり前に皆で同じものを守って皆で同じものと戦えるはずだという思い込みに、全員が全員囚われてしまいやすいところから起きる。

   
さてもう分かった人もいると思う。タイトルの「尊重してあげる」というのは、まるごと許して受け入れて我慢してあげるという意味ではない。

それをやってしまったら、「暴力や暴言は嫌だ、辛い」という自分の感性を否定することになる。

  

暴力や暴言を好む人を否定する権利が、私にはないのと同じように

私の「そういうのは嫌だ。無理」という感性を否定する権利も、誰にもない。
  
だから毒親からは「離れる」一択だ。

   

心から好きなことを、他人に何か言われたからといって、どうやってやめられるだろう。

もし私が「本読むのが好きとかキモいし、ましてやネット上にブログ書いてるとか気持ち悪いからやめなって、ろくな人生歩めないよ」とか言われたところで、絶対にやめられない。

例えそれを真に受けて「やめなきゃいけないようなことなのか…」とか悩むことがあったとしても、最終的には捨てられないのが目に見えている。

  

私は、読む・書くといった趣味・娯楽をやめられない。

あの人達は、暴力を含めた趣味・娯楽をやめられない。

まったく同じことだ。そこに違いはない。優劣はない。上下はない。
 
だから

「暴言・暴力が楽しい」と「暴言・暴力をどうやったって楽しめない」

のような真逆のものを備えた両者は、ただ関わり合っているだけで、人格否定と存在否定のし合いになってしまう。

  

ということは

ずっと遠くの、視界に入らない場所に離れることだけが唯一、私があの人たちの趣味と感性をそのまま尊重してあげられる方法なんだと。

特になんの前兆もなく、脈絡もなく、いきなり雷に打たれるようにそう確信した瞬間があった。

 

f:id:mmee1818:20190809181435j:plain


  

私も、日常的に人格や趣味や感性や一挙一投足を否定され続けることがどれだけ辛いかは、体験してきた。

ということはあの人達視点に立ってみれば、暴力暴言のような『心から愛する趣味』に対しては嫌な顔をされ、暴力暴言を内包する『人格』は否定され続けてしまったのだ。私という存在そのものから、日常的に。
 

極端に相性が悪い存在でも、同じ屋根の下に生まれてしまうことはある。

確率の問題だから選べない。

牡蠣にあたるのは人生で一定確率で起きる。あたってしまうとすごく苦しいけど、ただただ不運だっただけ。その牡蠣を引いてしまった人が悪い訳ではない。

 

私を作って産み出してしまったあの人達に非はなく、あの人達と同じ屋根の下に生まれてしまった私にも非はない。お互いに選べないのだから。

 

私は偶然(雷のように)それを理解したために

いわゆる「親から離れることへの罪悪感」「自分は親を捨てた冷酷な人間なんじゃないかという自己嫌悪」みたいなものが一切ない。

 

あの人達も、暴力暴言に囲まれて過ごしたいという感性を否定する存在(=私)が視界から消えたのだから、解放されていることだろう。

私は私で、穏やかな家で暮らしたいという自分の感性を尊重できている。

(穏やかといっても、絶対に波風立てたくない! とかではなくて、「たまには夫婦げんかすることもある」とかの範囲を逸脱しない程度で十分)

 

虐待家庭に育った子供が実家との関わりを断つというのは、それ自体が「お互いの感性や自由を守ること」だ。

まだいくらかは残っている(であろう)親への愛でもって出来ることは、お互いを解放することだ。

その残った愛が枯渇したあとが、家族間の殺人のような取り返しのつかない道に突き進むことになるのだと思う。

 

機能不全家庭の、というか機能不全な親のしわ寄せを受け続けた子供が長年親を殺さずにいるのは、子供から親への最後の愛だ。

 

もしこれを読んでいる人がその立場の子供だったなら(成人してもまだその立場の子供でいることを強要されているようなら)、

あなたが愛情の一線をまだ守れていることを誇っていいし、それが残っているうちにその家とかなりの距離をとった方が良い。

残っているうちならまだ、まっとうな判断力も残されているはずだから。

愛を核とした怒りというものがある。そして怒りの暴走を止められるのも愛だけだ

あの事件を受けて。

 

news.yahoo.co.jp

この意見に賛否両論…というかほぼ『否』が巻き起こっていたのを、ぼやーっと眺めていた。

私は、今までの人生の中のなにかがほんの数ミリ違っていたら、通り魔やってた側の人間だ。でも何が違ったのか、なぜそうせずにすんだのかはずっと分からない。

いやいくら犯人に近いものがあるといったって、当の本人ではないのだから代弁なんかできない。他人の氣持ちなんか私にはわからない。けど、どういう環境にいてどういう要素があって何が続けばそうなるのか、直感的に分かる。

 

……というような、別にそう望んでる訳でもないけど分かってしまうという人は、私が想定していた以上に少数なのかもしれなかった。

なぜなら、あの記事への賛否両論を見るに、どうも多くの人は「一人で自殺」と「他人を巻き込む」がまったくの別物でくっきりハッキリ別れているものだと認識しているらしいからだ。(法律上はそりゃ違うけども、そういう話ではなくて)

一般に、そこまで完全な別物として認識されているとは知らなかった。

私はたまたま、それが地続きだと知っている。どちらも同じところにあるのをハッキリ見たことがある。「こいつを殺すか、それとも自分を殺すか」の二択になっていることにふっと氣付いた瞬間があり、「これはヤバイ」と判断してその環境から遠くに逃げた。

 

こういうことを話すと「行動に移さなかったんだから殺人犯なんかとは全然違うよ!」と良い風に考えてくれる人もいそうだけど、残念なことにそれはかなり的外れだ。「ふっと氣付いた瞬間」は決して自分で冷静に選べた訳ではない。意志や思考によるものではない。ただの偶然に過ぎなかった。

なぜ、その二択になっていることを自覚できた瞬間があったのか、なぜその瞬間を迎えられたのか、自分でも分からない。思考や理性によるものではなかった。うなされる夢からハッとさめた時のような感覚に近い。

毎朝、睡眠から覚める時を思い浮かべてもらえば分かると思う。ただ起床するだけのことに思考も理性もなにもない。

 

 

ところで。いきなり『ハリー・ポッター』シリーズの話をする。

アルバス・ダンブルドア教授という登場人物。

彼は常に、ハリーに対して「赤子のころヴォルデモート卿に殺されかけた君を救ったのはご両親の愛。これから先も君を救うのが愛」ということを言い続けた。愛を失うな、忘れるな、闇の魔法使いに勝つことが出来るのは愛だけなのだということを、色んな言い方でハリーに教え続けていた。

ラスボスであるヴォルデモート卿は、ダンブルドアのそういうところを馬鹿にしている。「あぁ、ダンブルドアお得意の解決法。それは『愛』!」みたいにせせらわらうシーンがある。

私はあのシーンが結構好きだ。「愛だの優しさだのという理想論で何が変わるんだw」と鼻で笑いたくなる氣持ち、わりと分かるからだ。

実際ヴォルデモート卿は(=かつてのトム・リドルは)ダンブルドアのそれとは相容れず、闇陣営に惹かれ続けた末に『闇の帝王』になった人物なので、彼は要するに「愛とかそんな生ぬるいもんじゃ救済されなかった人間達がここに、この闇陣営に大量にいますけどー?w」と言ってる訳だ。

彼の現状を見れば、まぁそりゃそう思いますよねと。読んでいけば分かるようになっている。

 

でも私はその氣持ちが分かると同時に「とはいえ、結局は愛だよね」とも、思っている。どちらの言っていることも分かるというやつだ。

これはハリポタという作品に限った話ではなくて、現実の人生とか、世界とか、生き方とか、そういう全体的なもの(?)に関して、私自身の感覚で「結局は、愛だよね」と思う。

一見相容れないふたつだけど、両方とも本音だ。

 

強い怒りや悲しみが何かを大きく変えることはある。ハリポタでいえば主人公のハリーにも「両親を殺された」「自分を守って両親は殺された」「友人も殺された」という強い怒りの核がある。それは全編通して彼の行動原理だ。

誰であれ、怒りや悲しみというものは感じられなくなってしまう方がまずい。ちゃんと感じられる方が、心は健康な状態に近い。

もしハリーが両親の愛を理解していなければ、仲間を愛することがなければ、それらを喪った怒りを感じることがなければ、一人になっても闇陣営に立ち向かうような勇敢さの核にもなり得なかっただろう。

 

ただし、怒りや悲しみの暴走に歯止めをかけられるのも愛だけだ。

 

これは読んだ人には分かるのだが、ハリーはヴォルデモート卿との最終戦で攻撃呪文は使わなかった。「武装解除呪文」という、ただ単に武器を手から跳ね飛ばすだけの呪文を使った。ちなみに魔法学校の一年生で習うような基礎中の基礎の呪文。誰でも使える簡単な魔法だ。

終戦時点でのハリーは、色んな真実を知って「ハリーの死がヴォルデモート卿の死であると運命づけられている」という認識なので(厳密にはちょっと違ったんだけどハリーはそれを知らない)、「あいつ殺す」というより「一緒に滅びると決意した」ような状態だ。

そんな時に選んだ呪文が武装解除呪文だった。魔法学校の一年生で習うような、ごく基礎的で簡単な呪文である。確実に二人で滅びるために強力な死の呪文(=禁じられた闇の魔術)を使ったって構わないような状況なのに。

その時のハリーの心理を総合すると「武装解除呪文がいつも僕を助けてくれたから、僕にはこれでいい。これがいいんだ」「両親や友人を殺した闇の魔術を、僕は決して使わない。たとえ自分が殺される時でも」という理由で、武装解除呪文を選んでいる。

つまり「あいつ絶対殺す」の感情ではなくて、「愛」の方を選んだのだ。

いつも助けてくれたという絆を感じるもの。もうこの世にはいない大切な人への想い・敬意。決して闇陣営と同じことはやらないという、自分への信頼・確信。そういった様々な形の愛だ。

ヴォルデモート卿の方はというと、やはり、ためらいなく死の呪文を使った。いつもそうしてきたのだから当然のことだった。しかし双方の杖に特殊な関係性があったので、呪文は通常とはまったく異なる発動の仕方になった。そうなることをふたりとも知らなかった。

細かいことは省くが、ヴォルデモート卿はハリーに殺されたのではなく、自分が使った死の呪文で自滅した。もしもハリーが「どうせ死ななきゃいけないんだからこっちだって確実に殺してやる!」とばかりに死の呪文(または闇の魔術)を使っていたら、ハリーは助からなかった。

 

この場合、愛がヴォルデモートを打ち負かしたというよりも、愛がハリーの暴走を防いで冷静さと穏やかさをもたらし、結果的にハリーにとって想定外の勝利・生還に繋がったたのだと、私は読んだ。

ヴォルデモート卿はあくまでも、愛を喪失して生きて来たが故の自滅だ。

  

たぶん、愛や優しさというのはわりと抽象的で、ぽやっとしたものに見える。

愛は包容でもあるから、愛を持って何かを断言するというのはだいぶ難しい。何が悪で何が善かなんて基準を設定するような話自体ができなくなる。

一方で、人間は拒絶や不安の心理が大きくなっている時、抽象的な愛なんかよりも、強い断言や断罪の方が安心できる。私達はみんなそういう風にできている。わかりやすく断罪できるもの、強く断言してくれるものを求める。

それは人間の心理パターンとしてとても自然な、ある意味まっとうなものだと思う。藤田氏の意見は犯人への強い断罪に(つまり人々の不安の解消手段に)水を差すようなもので、「社会が手を差し伸べて、社会と繋がりを」のような言い回しもとても抽象的に感じるものだ。

こんなショックな事件が起きた時に断言と断罪を求めるのはごく当然の人間心理なのだから、藤田氏を非難している人もただただ健全な人たちだ。

逆に、不健全なものの心理を知っている人、不健全なものにとって何が歯止めになるかを知っている人が、藤田氏の意見に賛同しているのだと思う。

 

私だって、大多数の人たちの健全さを批判したい訳じゃない。そういう人たちは正しい。その正しさに沿って生きてくることが出来た人たちなのだから、圧倒的に正しい。

でも、その正しさに沿って生きられなかった私は、なんとなーくでもいいから自分と似たような感覚の意見ってないもんかなー。と思っていたら藤田氏の記事はそのひとつで、それ以上に太田光氏が言っていたことがかなり近かった。

news.yahoo.co.jp

「俺なんか、(犯人と)同じ50代ですけど、やっぱり高校生くらいのときに、あー、俺も何も感動できなくなったときがあったんですよ。物を食べても味もしない。そういうときにやっぱりこのまま死んでもいいんだっていうくらいまで行くんだけれども。そうなっちゃうと他人の命も・・・。自分がそうなら(死んでもいいとなるなら)他人の命も・・・。自分がそうなら、他人の命だって、そりゃあ、大切には思えないよね」

太田は自身が自殺を考えていた頃の切実な体験を語り始めたのだ。

 そのときに太田が自殺を実行せずに現在にいたるきっかけがあったという。

(中略)

「たまたま美術館に行って、ピカソの絵を見たときになんか急に感動が戻ってきたの。何を見ても感動できなかったんだけど・・・。ピカソを理解できたってわけじゃないんだけど、そんときの俺は『ああ、こんな自由でいいんだ』と。『表現って・・・』」

 この後の太田の言葉はつかの間であっても考えた末の言葉であることがわかる。

「そこからいろいろなことに感動して、いろいろなものを好きになる。好きになるってことは結局、それに気づけた自分が好きになるってことで・・・。それっていうのは、人でも文学でも、映画でも、何でもいいんだと・・・。

そういうことに心を動かされた自分って、捨てたもんじゃないなって思うの。

生きている生物や人間たちの命もやっぱり、捨てたもんじゃないのだと」

ああそれ。その感じ。と思った。

私にとってのそれは主に文学作品だった。本を開いたその中に少しだけ居場所を空けてもらえているような感じがあった。作者を理解できるなんていう意味ではない。ただそこに、そのまんまぽつんと、いてもいいよ。という、私ひとりぶんだけの小さなスペースがいつでもある。

それらの本は実際に生きた人間が書いていて(絵なら「描いて」いて)、人間社会が作った会社が「これは世に出しましょう」と評価して出版しているおかげで読むことができたものだ。広い意味での社会との繋がり、人との繋がりだった。

冒頭で「自分と何が違ったのか分からない」と書いたが、はっきり言って、自分の中身としてはああいう殺人犯とさほど違わないのだと思う。

もし違うとすれば私自身ではなくて、私の外にあった何か。つまり「そこにいていいよ」というメッセージを、色濃くくれた存在があったかどうか……じゃなかったんだろうか。

人から直接じゃなくてもいい、文学でも絵でもお笑いでもなんでも。 

f:id:mmee1818:20190604183424j:plain

社会が手を差し伸べるというのは、なにも個人が特定の誰かの人生に深く踏み込んで責任持って導くべき、なんていう意味ではないだろう。

「ほんのちょっとだけ、どこかの誰かのためのスペースを空けておくね」という余白を、本当にほんのちょっとでいいから持っておくことだと思う。

もちろんこの世に生きる全員にそんな余裕があるなんてまったく思わない。でも、そんな余裕がある人だけでもいいので、ほんのちょっとだけそれをやっておくことが、いつかどこかで誰かを食い止める機能になる。

 

やっぱり抽象的な話になってしまうな。

もし、自殺だの殺すだのいう感覚と縁のない人だとしても、趣味なり仕事なりで何かを創造したことのある人にはなんとなく分かってもらえそうな氣がしている。

雨の日のハイドランジア

お題「雨の日のちょっといい話」

 

今からお話するのは、私にとって大切な友人の物語です。

 

彼女は雨の日がとても苦手でした。私も苦手です。なぜなら私達は、空模様の変化に逐一反応してしまう体質をしているからです。これは人間の姿を得てから最低でも200年くらいは経たないと抜けないことが分かっています。

雨が近づいてくるとキィンと頭が痛くなって、体に力が入らずふらつきはじめ、日によっては目すら開けられずベッドから起き上がれなくなります。私などは90年ほど前にうっかり段差につまづいて左足をひどくひねってしまったものですから、雨が近づくと左足がしくしく痛みはじめます。

雨の当日よりも前日〜前々日あたりの方が辛いのは、彼女もまったく同じだと申しておりました。明日は雨が降るなぁ、といつも確実に分かります。外れたことはありません。良いのだか悪いのだか。

 

彼女とは、かつて同じ教室で薬草学を学んでいました。互いに、同じ時を生きられる友人は他にいませんでした。ですのでおそらく彼女も、空模様の変化に反応する体であることは他の誰にも言わずに来たはずです。仮に私達が本当に魔女やあやかしの類だったとしても、『魔女であること』と『魔女扱いされること』はまったく違うことを知っているからです。

私もわりと最近まで、誰にも言ったことがありません。

 

彼女はその朝も、起きたときから、頭が締め付けられるような痛みがあったそうです。

厚い靴下と上着をきちんと身につけて温かいスープを飲んでみても、手足の先がなんとも冷たいまま。あぁ、これは雨の前の兆候だなと。

となると、立って動けているうちに買い出しに行っておく必要があります。寝込んでからちゃんとした食事なんて作れませんからね。その時の彼女もおそらく、パンとか果物とか、まぁとりあえず簡単に食べられるものを多めに買っておこうと考えたでしょう。

彼女が当時住んでいたのは森の中ですが、村まではそう遠くない。手紙の配達も、農場の卵も、ちゃんと家まで来て手渡してくれていたそうです。村人にはほとんど会わずにすんで、かつ不便というほどではない、ちょうど良い距離に住めたものだと我ながら思う。と、手紙に書いてあったことがあります。

ちょうど良い距離といっても、そういう時は本当は出かけるのも嫌なものです。家の裏で小さな畑でもやれるならまだ良いのですが、残念ながら私達は、動植物を「採取する」ことは出来ても「育てる」ことは出来ないようになっているので……。

 

おっと話がそれました。ともかくその朝の彼女は、動けるうちに買い出しに行かなくてはと考えた訳です。

村へ向かおうとして扉を開けたとたん、たいそう驚いてしまったそうです。人が目の前に立っていたから。しかしそれは見慣れた制服だったので、なんとか悲鳴はあげずに済んだとか。

どうも、荷運び人の彼がちょうど扉をノックしようと手を伸ばした瞬間に、彼女が中から開けてしまったようなのです。彼もたいへん慌てており、ひっくり返った声で何度も謝っていたそうです。まぁふたりとも驚いたでしょうね。

 

村人と必要以上に関わらないようにしてきたといっても、さすがに荷運び人の彼や、毎朝卵を届けてくれる農場のおじいさんと挨拶をかわす習慣くらいはあったそうです。

何の確認もなしに扉を開けてしまった非礼を詫びながら、差出人は誰かと尋ねると、どうも彼の様子がいつもと違っている。手紙なり荷物なりを渡そうとするでもなく、しかし何かを言いたげだったと。

意図を掴みかねていると、彼は耳まで真っ赤にして花束を差し出したのですって。鮮やかな紫色と、可愛らしい桃色のハイドランジア。日本語で言うと確か"紫陽花"でしたね。

茎にはレースのリボンまで巻かれていたそうです。まさか彼の私物だったとは考えにくいので、おそらく村の雑貨屋で調達したのでしょう。彼女のために。

 

そして彼は言ったそうです。雨の日にお体の具合が悪そうになることは、以前から何となく知っていましたと。他に何もうまいことが思いつかなくて、何か俺に出来ることはありせんか……と。つっかえつっかえ、いかにも勇気を振り絞りましたという様子で。

背が高いはずなのに縮こまってしまって、みるみる首筋まで赤くなっていく彼を見ていたら、彼女も自分までどきどきしていることに気付いたそうですよ。冷たかったはずの手足がなんとも暖かくなっていったとか。

 

けれど彼女はもちろん、その花束を受取ることは出来ません。私が同じ立場でも受け取りません。元に戻れなくなってしまうから。

元に戻れない、の意味は……。私の口からは言ってはいけないことになっているので、どうか深く聞かないでくださいね。

彼女はわざと冷たい声になるよう努力して、少なくとも自分ではそう努力したつもりで、言ったそうです。必要以上に【森の薬師】と関わってはいけないと、お父様やお祖父様から教わらなかったのですか? と。

彼は答えました。そういうしきたりなのは、もちろん知っていますと。でも、具合の悪そうな人に手を貸したいのは、それは『必要』なことだと思うから、と。

 

彼女はほとんど無意識に腕を上げて、花束を受け取っていたそうです。

 

最後に二人に会った時のことは……これもあまりたくさん話す訳にいかないことの方が多いのですが。

私の目にはとても幸せそうな二人に見えた。とだけ言っておきますね。

 

 

この話を、「甘い恋の思い出」などではなく「ちょっといい話」の題で書いているのには理由があります。

彼女と村の人とは最低限しか関わってはいけないことになっていたのを、彼が破っているから。彼はその理由までは知らないのに破ってしまったから。彼女も拒絶しなければいけないと分かっていたのに、できなかったから。

古いしきたりよりも我が心に従うって、一見素敵な話なんですけどね。ただ、やった時に何が起きるか知らないまま破ってしまった青年は、実はもっと昔にもいたのです。古いものに意味がないとは限らない。

人間に特別な想いを抱いてしまった彼女も、もう元には戻れなくなってしまいました。

 

二人の生涯を、物語を、ぜーんぶ通して見た時「いい話」なんて言えそうな部分はほんの「ちょっと」だけ。でも、彼にとっても彼女にとっても、そのほんの「ちょっと」だけの思い出は、生涯胸から離れない宝物だったのです。

私は二人の死後、それを取り出して宝石にすることを約束しておりました。とある決まった手順を踏むことで、静かに還れるようにするのです。

ですので先日、約束を果たしてきました。

二人から取り出したそれは、紫色と桃色の花びらを輝く水滴の中に集めたような、まるで紫陽花のような宝石となりました。

 

f:id:mmee1818:20190516082829j:plain

【了】

 

===================

※この物語はフィクションです

 ※参加表明して記事も書き終えていたのに、「15日」になったその日を「まだ14日」だと錯覚しており「15日」内に投稿しそこねるという失態をやらかしました。

なまじ、投稿直前にもう一度推敲しようと考えたもんだから予約投稿にしておらず…

でもこのために書いたのに誰の目にも触れないままにするのも登場人物に申し訳ないので、やっぱり投稿します!!! すみません!!!

ハイドランジアは紫陽花の学名で、ギリシャ語で『水の器』という意味だそうです。『紫陽花』も『水の器』もどちらも美しいので欲張った。


主催者様がお題企画に沿って書かれた記事はこちら

sourceone.hatenablog.com

ありがとうございました!

【企画宣伝】雨の日のちょっといい話 というお題で募集されています

宣伝です!

sourceone.hatenablog.com

フォロワーさん(ってはてブロではなんていうんだ?)の どこかの誰か (id:sourceone) さんが、お題企画の参加者を募集されています。私も参加します。

 

そこで今回のテーマは「雨の日のちょっといい話」にしようと思いました。実体験でも創作でも結構です。例えば

  • 雨の日のちょっといい思い出(e.g. 大雨の放課後教室で友人たちとやった人狼
  • 雨の日にしか味わえないちょっと幸せなこと(e.g. 傘に隠れて片思い相手と話しながら歩く帰り道)
  • 雨を好きだと思った瞬間(e.g. 色んな色の傘が街に花咲く)

などなど。想像力豊かなブロガーの皆さんだからこそ書ける「雨の日のちょっといい話」を、ぜひこの機会に見せてください!

 

参加方法の詳細、締切日時などは元記事でご確認ください。

また拡散希望とのことなので、告知も協力していただけると嬉しいです〜。

こういうの楽しいですね!

私、天才だからしょうがないよね☆ と思うことにした

何をどう頑張っても私は「変」だ。

念の為言っておくと「変」というのは自分ひとりの思い込みではなくて、他人の反応から分かる。自虐や卑下のつもりもない。10人中の8〜9人くらいが同じような反応をするんであれば、少なくとも客観的に見た私は「変」なのだ。

 

昔は、確かにそれを何かいけないことだと認識していて、なんとか直さなければ、繕えるようにならなければと無理矢理頑張っていた。でもそういうスタンスこそが卑屈さだと現在は思っている。

「変」なことを見下さず過剰な問題視もせず、フラットでいてくれる人なんて、はっきり言って希少だ。そもそも私だって自分自身に対してそんな風になれなかった時期のほうが長いし。

たとえ「私は変なんかじゃない!」と内心抵抗したって、人並みレベルまで直さなきゃと頑張ったところで、人間を相手にした時に起きる現象は残念ながら変わっちゃくれない。

直さなきゃーちゃんとしなきゃーと思っている時点でそれは不自然さだったり変な力の入り方に繋がるので、大抵の人はその不自然さのほうが鼻について攻撃したくなるんじゃないか。

 

とはいえ、人から露骨に嘲笑されれば普通に傷付くこともある。

あぁ悪意はないんだろうけどすっごいナチュラルに見下されてるなぁ…と分かってしまう時は複雑な氣持ちだ。

で、そういう時の『傷ついた、複雑な氣持ち』をできるかぎり紐解いてみて、かつ他人にも分かりやすいようにちょっと激しめに表現してみるとすると

「なんなの私ってそこまで変!? それともこいつ(orこいつら)が馬鹿なの!?」となる。

 

DEATH NOTEおもしろいよね

 

 

ということを一旦覚えておいていただくとして。

少し話は変わる。

 

半年ほどまえに知り合った人で、「俺、天才だから☆」と堂々と言ってのける人がいる。

実際その人は頭が良いと思う。仕事上の実績も高い。五感が鋭い。大抵の人はおそらくその人の前で隠し事はできないと思う。

ただし、当然ながら、どんなことでも上を見ればいくらでも上がいることをその人本人も分かっている。んなことは大前提とした上で「俺、天才だからね☆」と嫌味なく言えていた。

ああ、なんか良いなぁと思った。

これまで、私は私で「今日も●●ができた、さすが私☆」と些細なことで自分を褒める言葉を意識的に口に出すようにしてきた。が、その人を見ていて新しく氣付いたことが2つあった。

 

1. 私なんかが「天才」だなんて自分に言っちゃったら人に馬鹿にされる。笑われると、また架空の世間の声を、妄想の誰かを自分の中に作り上げている

 

2.前述の「なんなの私ってそこまで変!? それともこいつ(orこいつら)が馬鹿なの!?」の続きに、実は「でも、馬鹿呼ばわりされていい人なんて本当はいない。見下されていい人だっていない。私もそうだし、(その時の)相手もそうだ。誰かのことをそんな風に思いたい訳でもない」

という氣持ちも確かにある。

 

で、サラッと「俺、天才だからね☆」って言えちゃうスタンスをいいなぁと思ったので(※天才だから〜と驕っている態度でもなく、天才ゆえに苦悩しているというニュアンスでもない)、試しに私も唱えてみたのだ。

今まで「なんなの私ってそこまで(略」という氣持ちになった時のことをいくつか思い出してみた。なるべく細かく思い出してみた。その当時の自分になったつもりで、「ま、私天才だからしょうがないね☆」と唱えてみた。

 

そしたら、あらびっくり。自分のことも責めなくて良い、他人のことも責めなくて良い、めちゃくちゃ素敵で快適な言葉じゃないか。

「仕方のないことなんだから我慢しろ」とか無理やり自分に言い聞かせるんじゃなくて、心からしっくりと「ま、しょうがないね」と、ストンと納得できた。

f:id:mmee1818:20190510205516j:plain

 

「変」なのはもう自分でもどうしようもない。

「変」なことを見下さずにいてくれる人や攻撃せずにいてくれる人のほうがはるかに少ないのも現実。

その二つの間に、私にとっての安全な橋を渡してくれるのは「ま、私天才だからしょうがないよね☆」とテキトーに言っちゃうことだった。高田純次的な?

 

だからこれからは時々、意識的に言葉に出すことに決めた。「私、天才だからね☆」と。

40代、50代になった時に、高田純次みたいなテキトーでナイスなおばちゃんになれていたらいいなぁ。

いい話に直接無粋な突っ込みを入れないくらいには大人になった

 

ある人「(要約)夫婦間ではとにかく話し合いが大事。ただの対立になってしまわないように、お互いの要望をきちんをさらけ出して、しっかりディベートする。うちではとにかく冷静なディベートを心がけて云々」

私「(それはディスカッションではないだろうか)」

 

 

問題解消の役割を第三者が持つ ディベート

問題解消の役割を当事者が持つ ディスカッション

 

ディベート」という単語が出てくるたびに、ふつーの家のリビングに謎の第三者が3〜5人くらい横並びに座って『夫』『妻』の札を持っているような絵面が浮かんでしまい、口がにやけそうになるのをずっと我慢していた。

言ってる内容はとても良かったと思う。

ていうかもう日本語で『議論』か『意見交換』あたりでいいと思う。