愛を核とした怒りというものがある。そして怒りの暴走を止められるのも愛だけだ

あの事件を受けて。

 

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この意見に賛否両論…というかほぼ『否』が巻き起こっていたのを、ぼやーっと眺めていた。

私は、今までの人生の中のなにかがほんの数ミリ違っていたら、通り魔やってた側の人間だ。でも何が違ったのか、なぜそうせずにすんだのかはずっと分からない。

いやいくら犯人に近いものがあるといったって、当の本人ではないのだから代弁なんかできない。他人の氣持ちなんか私にはわからない。けど、どういう環境にいてどういう要素があって何が続けばそうなるのか、直感的に分かる。

 

……というような、別にそう望んでる訳でもないけど分かってしまうという人は、私が想定していた以上に少数なのかもしれなかった。

なぜなら、あの記事への賛否両論を見るに、どうも多くの人は「一人で自殺」と「他人を巻き込む」がまったくの別物でくっきりハッキリ別れているものだと認識しているらしいからだ。(法律上はそりゃ違うけども、そういう話ではなくて)

一般に、そこまで完全な別物として認識されているとは知らなかった。

私はたまたま、それが地続きだと知っている。どちらも同じところにあるのをハッキリ見たことがある。「こいつを殺すか、それとも自分を殺すか」の二択になっていることにふっと氣付いた瞬間があり、「これはヤバイ」と判断してその環境から遠くに逃げた。

 

こういうことを話すと「行動に移さなかったんだから殺人犯なんかとは全然違うよ!」と良い風に考えてくれる人もいそうだけど、残念なことにそれはかなり的外れだ。「ふっと氣付いた瞬間」は決して自分で冷静に選べた訳ではない。意志や思考によるものではない。ただの偶然に過ぎなかった。

なぜ、その二択になっていることを自覚できた瞬間があったのか、なぜその瞬間を迎えられたのか、自分でも分からない。思考や理性によるものではなかった。うなされる夢からハッとさめた時のような感覚に近い。

毎朝、睡眠から覚める時を思い浮かべてもらえば分かると思う。ただ起床するだけのことに思考も理性もなにもない。

 

 

ところで。いきなり『ハリー・ポッター』シリーズの話をする。

アルバス・ダンブルドア教授という登場人物。

彼は常に、ハリーに対して「赤子のころヴォルデモート卿に殺されかけた君を救ったのはご両親の愛。これから先も君を救うのが愛」ということを言い続けた。愛を失うな、忘れるな、闇の魔法使いに勝つことが出来るのは愛だけなのだということを、色んな言い方でハリーに教え続けていた。

ラスボスであるヴォルデモート卿は、ダンブルドアのそういうところを馬鹿にしている。「あぁ、ダンブルドアお得意の解決法。それは『愛』!」みたいにせせらわらうシーンがある。

私はあのシーンが結構好きだ。「愛だの優しさだのという理想論で何が変わるんだw」と鼻で笑いたくなる氣持ち、わりと分かるからだ。

実際ヴォルデモート卿は(=かつてのトム・リドルは)ダンブルドアのそれとは相容れず、闇陣営に惹かれ続けた末に『闇の帝王』になった人物なので、彼は要するに「愛とかそんな生ぬるいもんじゃ救済されなかった人間達がここに、この闇陣営に大量にいますけどー?w」と言ってる訳だ。

彼の現状を見れば、まぁそりゃそう思いますよねと。読んでいけば分かるようになっている。

 

でも私はその氣持ちが分かると同時に「とはいえ、結局は愛だよね」とも、思っている。どちらの言っていることも分かるというやつだ。

これはハリポタという作品に限った話ではなくて、現実の人生とか、世界とか、生き方とか、そういう全体的なもの(?)に関して、私自身の感覚で「結局は、愛だよね」と思う。

一見相容れないふたつだけど、両方とも本音だ。

 

強い怒りや悲しみが何かを大きく変えることはある。ハリポタでいえば主人公のハリーにも「両親を殺された」「自分を守って両親は殺された」「友人も殺された」という強い怒りの核がある。それは全編通して彼の行動原理だ。

誰であれ、怒りや悲しみというものは感じられなくなってしまう方がまずい。ちゃんと感じられる方が、心は健康な状態に近い。

もしハリーが両親の愛を理解していなければ、仲間を愛することがなければ、それらを喪った怒りを感じることがなければ、一人になっても闇陣営に立ち向かうような勇敢さの核にもなり得なかっただろう。

 

ただし、怒りや悲しみの暴走に歯止めをかけられるのも愛だけだ。

 

これは読んだ人には分かるのだが、ハリーはヴォルデモート卿との最終戦で攻撃呪文は使わなかった。「武装解除呪文」という、ただ単に武器を手から跳ね飛ばすだけの呪文を使った。ちなみに魔法学校の一年生で習うような基礎中の基礎の呪文。誰でも使える簡単な魔法だ。

終戦時点でのハリーは、色んな真実を知って「ハリーの死がヴォルデモート卿の死であると運命づけられている」という認識なので(厳密にはちょっと違ったんだけどハリーはそれを知らない)、「あいつ殺す」というより「一緒に滅びると決意した」ような状態だ。

そんな時に選んだ呪文が武装解除呪文だった。魔法学校の一年生で習うような、ごく基礎的で簡単な呪文である。確実に二人で滅びるために強力な死の呪文(=禁じられた闇の魔術)を使ったって構わないような状況なのに。

その時のハリーの心理を総合すると「武装解除呪文がいつも僕を助けてくれたから、僕にはこれでいい。これがいいんだ」「両親や友人を殺した闇の魔術を、僕は決して使わない。たとえ自分が殺される時でも」という理由で、武装解除呪文を選んでいる。

つまり「あいつ絶対殺す」の感情ではなくて、「愛」の方を選んだのだ。

いつも助けてくれたという絆を感じるもの。もうこの世にはいない大切な人への想い・敬意。決して闇陣営と同じことはやらないという、自分への信頼・確信。そういった様々な形の愛だ。

ヴォルデモート卿の方はというと、やはり、ためらいなく死の呪文を使った。いつもそうしてきたのだから当然のことだった。しかし双方の杖に特殊な関係性があったので、呪文は通常とはまったく異なる発動の仕方になった。そうなることをふたりとも知らなかった。

細かいことは省くが、ヴォルデモート卿はハリーに殺されたのではなく、自分が使った死の呪文で自滅した。もしもハリーが「どうせ死ななきゃいけないんだからこっちだって確実に殺してやる!」とばかりに死の呪文(または闇の魔術)を使っていたら、ハリーは助からなかった。

 

この場合、愛がヴォルデモートを打ち負かしたというよりも、愛がハリーの暴走を防いで冷静さと穏やかさをもたらし、結果的にハリーにとって想定外の勝利・生還に繋がったたのだと、私は読んだ。

ヴォルデモート卿はあくまでも、愛を喪失して生きて来たが故の自滅だ。

  

たぶん、愛や優しさというのはわりと抽象的で、ぽやっとしたものに見える。

愛は包容でもあるから、愛を持って何かを断言するというのはだいぶ難しい。何が悪で何が善かなんて基準を設定するような話自体ができなくなる。

一方で、人間は拒絶や不安の心理が大きくなっている時、抽象的な愛なんかよりも、強い断言や断罪の方が安心できる。私達はみんなそういう風にできている。わかりやすく断罪できるもの、強く断言してくれるものを求める。

それは人間の心理パターンとしてとても自然な、ある意味まっとうなものだと思う。藤田氏の意見は犯人への強い断罪に(つまり人々の不安の解消手段に)水を差すようなもので、「社会が手を差し伸べて、社会と繋がりを」のような言い回しもとても抽象的に感じるものだ。

こんなショックな事件が起きた時に断言と断罪を求めるのはごく当然の人間心理なのだから、藤田氏を非難している人もただただ健全な人たちだ。

逆に、不健全なものの心理を知っている人、不健全なものにとって何が歯止めになるかを知っている人が、藤田氏の意見に賛同しているのだと思う。

 

私だって、大多数の人たちの健全さを批判したい訳じゃない。そういう人たちは正しい。その正しさに沿って生きてくることが出来た人たちなのだから、圧倒的に正しい。

でも、その正しさに沿って生きられなかった私は、なんとなーくでもいいから自分と似たような感覚の意見ってないもんかなー。と思っていたら藤田氏の記事はそのひとつで、それ以上に太田光氏が言っていたことがかなり近かった。

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「俺なんか、(犯人と)同じ50代ですけど、やっぱり高校生くらいのときに、あー、俺も何も感動できなくなったときがあったんですよ。物を食べても味もしない。そういうときにやっぱりこのまま死んでもいいんだっていうくらいまで行くんだけれども。そうなっちゃうと他人の命も・・・。自分がそうなら(死んでもいいとなるなら)他人の命も・・・。自分がそうなら、他人の命だって、そりゃあ、大切には思えないよね」

太田は自身が自殺を考えていた頃の切実な体験を語り始めたのだ。

 そのときに太田が自殺を実行せずに現在にいたるきっかけがあったという。

(中略)

「たまたま美術館に行って、ピカソの絵を見たときになんか急に感動が戻ってきたの。何を見ても感動できなかったんだけど・・・。ピカソを理解できたってわけじゃないんだけど、そんときの俺は『ああ、こんな自由でいいんだ』と。『表現って・・・』」

 この後の太田の言葉はつかの間であっても考えた末の言葉であることがわかる。

「そこからいろいろなことに感動して、いろいろなものを好きになる。好きになるってことは結局、それに気づけた自分が好きになるってことで・・・。それっていうのは、人でも文学でも、映画でも、何でもいいんだと・・・。

そういうことに心を動かされた自分って、捨てたもんじゃないなって思うの。

生きている生物や人間たちの命もやっぱり、捨てたもんじゃないのだと」

ああそれ。その感じ。と思った。

私にとってのそれは主に文学作品だった。本を開いたその中に少しだけ居場所を空けてもらえているような感じがあった。作者を理解できるなんていう意味ではない。ただそこに、そのまんまぽつんと、いてもいいよ。という、私ひとりぶんだけの小さなスペースがいつでもある。

それらの本は実際に生きた人間が書いていて(絵なら「描いて」いて)、人間社会が作った会社が「これは世に出しましょう」と評価して出版しているおかげで読むことができたものだ。広い意味での社会との繋がり、人との繋がりだった。

冒頭で「自分と何が違ったのか分からない」と書いたが、はっきり言って、自分の中身としてはああいう殺人犯とさほど違わないのだと思う。

もし違うとすれば私自身ではなくて、私の外にあった何か。つまり「そこにいていいよ」というメッセージを、色濃くくれた存在があったかどうか……じゃなかったんだろうか。

人から直接じゃなくてもいい、文学でも絵でもお笑いでもなんでも。 

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社会が手を差し伸べるというのは、なにも個人が特定の誰かの人生に深く踏み込んで責任持って導くべき、なんていう意味ではないだろう。

「ほんのちょっとだけ、どこかの誰かのためのスペースを空けておくね」という余白を、本当にほんのちょっとでいいから持っておくことだと思う。

もちろんこの世に生きる全員にそんな余裕があるなんてまったく思わない。でも、そんな余裕がある人だけでもいいので、ほんのちょっとだけそれをやっておくことが、いつかどこかで誰かを食い止める機能になる。

 

やっぱり抽象的な話になってしまうな。

もし、自殺だの殺すだのいう感覚と縁のない人だとしても、趣味なり仕事なりで何かを創造したことのある人にはなんとなく分かってもらえそうな氣がしている。

雨の日のハイドランジア

お題「雨の日のちょっといい話」

 

今からお話するのは、私にとって大切な友人の物語です。

 

彼女は雨の日がとても苦手でした。私も苦手です。なぜなら私達は、空模様の変化に逐一反応してしまう体質をしているからです。これは人間の姿を得てから最低でも200年くらいは経たないと抜けないことが分かっています。

雨が近づいてくるとキィンと頭が痛くなって、体に力が入らずふらつきはじめ、日によっては目すら開けられずベッドから起き上がれなくなります。私などは90年ほど前にうっかり段差につまづいて左足をひどくひねってしまったものですから、雨が近づくと左足がしくしく痛みはじめます。

雨の当日よりも前日〜前々日あたりの方が辛いのは、彼女もまったく同じだと申しておりました。明日は雨が降るなぁ、といつも確実に分かります。外れたことはありません。良いのだか悪いのだか。

 

彼女とは、かつて同じ教室で薬草学を学んでいました。互いに、同じ時を生きられる友人は他にいませんでした。ですのでおそらく彼女も、空模様の変化に反応する体であることは他の誰にも言わずに来たはずです。仮に私達が本当に魔女やあやかしの類だったとしても、『魔女であること』と『魔女扱いされること』はまったく違うことを知っているからです。

私もわりと最近まで、誰にも言ったことがありません。

 

彼女はその朝も、起きたときから、頭が締め付けられるような痛みがあったそうです。

厚い靴下と上着をきちんと身につけて温かいスープを飲んでみても、手足の先がなんとも冷たいまま。あぁ、これは雨の前の兆候だなと。

となると、立って動けているうちに買い出しに行っておく必要があります。寝込んでからちゃんとした食事なんて作れませんからね。その時の彼女もおそらく、パンとか果物とか、まぁとりあえず簡単に食べられるものを多めに買っておこうと考えたでしょう。

彼女が当時住んでいたのは森の中ですが、村まではそう遠くない。手紙の配達も、農場の卵も、ちゃんと家まで来て手渡してくれていたそうです。村人にはほとんど会わずにすんで、かつ不便というほどではない、ちょうど良い距離に住めたものだと我ながら思う。と、手紙に書いてあったことがあります。

ちょうど良い距離といっても、そういう時は本当は出かけるのも嫌なものです。家の裏で小さな畑でもやれるならまだ良いのですが、残念ながら私達は、動植物を「採取する」ことは出来ても「育てる」ことは出来ないようになっているので……。

 

おっと話がそれました。ともかくその朝の彼女は、動けるうちに買い出しに行かなくてはと考えた訳です。

村へ向かおうとして扉を開けたとたん、たいそう驚いてしまったそうです。人が目の前に立っていたから。しかしそれは見慣れた制服だったので、なんとか悲鳴はあげずに済んだとか。

どうも、荷運び人の彼がちょうど扉をノックしようと手を伸ばした瞬間に、彼女が中から開けてしまったようなのです。彼もたいへん慌てており、ひっくり返った声で何度も謝っていたそうです。まぁふたりとも驚いたでしょうね。

 

村人と必要以上に関わらないようにしてきたといっても、さすがに荷運び人の彼や、毎朝卵を届けてくれる農場のおじいさんと挨拶をかわす習慣くらいはあったそうです。

何の確認もなしに扉を開けてしまった非礼を詫びながら、差出人は誰かと尋ねると、どうも彼の様子がいつもと違っている。手紙なり荷物なりを渡そうとするでもなく、しかし何かを言いたげだったと。

意図を掴みかねていると、彼は耳まで真っ赤にして花束を差し出したのですって。鮮やかな紫色と、可愛らしい桃色のハイドランジア。日本語で言うと確か"紫陽花"でしたね。

茎にはレースのリボンまで巻かれていたそうです。まさか彼の私物だったとは考えにくいので、おそらく村の雑貨屋で調達したのでしょう。彼女のために。

 

そして彼は言ったそうです。雨の日にお体の具合が悪そうになることは、以前から何となく知っていましたと。他に何もうまいことが思いつかなくて、何か俺に出来ることはありせんか……と。つっかえつっかえ、いかにも勇気を振り絞りましたという様子で。

背が高いはずなのに縮こまってしまって、みるみる首筋まで赤くなっていく彼を見ていたら、彼女も自分までどきどきしていることに気付いたそうですよ。冷たかったはずの手足がなんとも暖かくなっていったとか。

 

けれど彼女はもちろん、その花束を受取ることは出来ません。私が同じ立場でも受け取りません。元に戻れなくなってしまうから。

元に戻れない、の意味は……。私の口からは言ってはいけないことになっているので、どうか深く聞かないでくださいね。

彼女はわざと冷たい声になるよう努力して、少なくとも自分ではそう努力したつもりで、言ったそうです。必要以上に【森の薬師】と関わってはいけないと、お父様やお祖父様から教わらなかったのですか? と。

彼は答えました。そういうしきたりなのは、もちろん知っていますと。でも、具合の悪そうな人に手を貸したいのは、それは『必要』なことだと思うから、と。

 

彼女はほとんど無意識に腕を上げて、花束を受け取っていたそうです。

 

最後に二人に会った時のことは……これもあまりたくさん話す訳にいかないことの方が多いのですが。

私の目にはとても幸せそうな二人に見えた。とだけ言っておきますね。

 

 

この話を、「甘い恋の思い出」などではなく「ちょっといい話」の題で書いているのには理由があります。

彼女と村の人とは最低限しか関わってはいけないことになっていたのを、彼が破っているから。彼はその理由までは知らないのに破ってしまったから。彼女も拒絶しなければいけないと分かっていたのに、できなかったから。

古いしきたりよりも我が心に従うって、一見素敵な話なんですけどね。ただ、やった時に何が起きるか知らないまま破ってしまった青年は、実はもっと昔にもいたのです。古いものに意味がないとは限らない。

人間に特別な想いを抱いてしまった彼女も、もう元には戻れなくなってしまいました。

 

二人の生涯を、物語を、ぜーんぶ通して見た時「いい話」なんて言えそうな部分はほんの「ちょっと」だけ。でも、彼にとっても彼女にとっても、そのほんの「ちょっと」だけの思い出は、生涯胸から離れない宝物だったのです。

私は二人の死後、それを取り出して宝石にすることを約束しておりました。とある決まった手順を踏むことで、静かに還れるようにするのです。

ですので先日、約束を果たしてきました。

二人から取り出したそれは、紫色と桃色の花びらを輝く水滴の中に集めたような、まるで紫陽花のような宝石となりました。

 

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【了】

 

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※この物語はフィクションです

 ※参加表明して記事も書き終えていたのに、「15日」になったその日を「まだ14日」だと錯覚しており「15日」内に投稿しそこねるという失態をやらかしました。

なまじ、投稿直前にもう一度推敲しようと考えたもんだから予約投稿にしておらず…

でもこのために書いたのに誰の目にも触れないままにするのも登場人物に申し訳ないので、やっぱり投稿します!!! すみません!!!

ハイドランジアは紫陽花の学名で、ギリシャ語で『水の器』という意味だそうです。『紫陽花』も『水の器』もどちらも美しいので欲張った。


主催者様がお題企画に沿って書かれた記事はこちら

sourceone.hatenablog.com

ありがとうございました!

【企画宣伝】雨の日のちょっといい話 というお題で募集されています

宣伝です!

sourceone.hatenablog.com

フォロワーさん(ってはてブロではなんていうんだ?)の どこかの誰か (id:sourceone) さんが、お題企画の参加者を募集されています。私も参加します。

 

そこで今回のテーマは「雨の日のちょっといい話」にしようと思いました。実体験でも創作でも結構です。例えば

  • 雨の日のちょっといい思い出(e.g. 大雨の放課後教室で友人たちとやった人狼
  • 雨の日にしか味わえないちょっと幸せなこと(e.g. 傘に隠れて片思い相手と話しながら歩く帰り道)
  • 雨を好きだと思った瞬間(e.g. 色んな色の傘が街に花咲く)

などなど。想像力豊かなブロガーの皆さんだからこそ書ける「雨の日のちょっといい話」を、ぜひこの機会に見せてください!

 

参加方法の詳細、締切日時などは元記事でご確認ください。

また拡散希望とのことなので、告知も協力していただけると嬉しいです〜。

こういうの楽しいですね!

私、天才だからしょうがないよね☆ と思うことにした

何をどう頑張っても私は「変」だ。

念の為言っておくと「変」というのは自分ひとりの思い込みではなくて、他人の反応から分かる。自虐や卑下のつもりもない。10人中の8〜9人くらいが同じような反応をするんであれば、少なくとも客観的に見た私は「変」なのだ。

 

昔は、確かにそれを何かいけないことだと認識していて、なんとか直さなければ、繕えるようにならなければと無理矢理頑張っていた。でもそういうスタンスこそが卑屈さだと現在は思っている。

「変」なことを見下さず過剰な問題視もせず、フラットでいてくれる人なんて、はっきり言って希少だ。そもそも私だって自分自身に対してそんな風になれなかった時期のほうが長いし。

たとえ「私は変なんかじゃない!」と内心抵抗したって、人並みレベルまで直さなきゃと頑張ったところで、人間を相手にした時に起きる現象は残念ながら変わっちゃくれない。

直さなきゃーちゃんとしなきゃーと思っている時点でそれは不自然さだったり変な力の入り方に繋がるので、大抵の人はその不自然さのほうが鼻について攻撃したくなるんじゃないか。

 

とはいえ、人から露骨に嘲笑されれば普通に傷付くこともある。

あぁ悪意はないんだろうけどすっごいナチュラルに見下されてるなぁ…と分かってしまう時は複雑な氣持ちだ。

で、そういう時の『傷ついた、複雑な氣持ち』をできるかぎり紐解いてみて、かつ他人にも分かりやすいようにちょっと激しめに表現してみるとすると

「なんなの私ってそこまで変!? それともこいつ(orこいつら)が馬鹿なの!?」となる。

 

DEATH NOTEおもしろいよね

 

 

ということを一旦覚えておいていただくとして。

少し話は変わる。

 

半年ほどまえに知り合った人で、「俺、天才だから☆」と堂々と言ってのける人がいる。

実際その人は頭が良いと思う。仕事上の実績も高い。五感が鋭い。大抵の人はおそらくその人の前で隠し事はできないと思う。

ただし、当然ながら、どんなことでも上を見ればいくらでも上がいることをその人本人も分かっている。んなことは大前提とした上で「俺、天才だからね☆」と嫌味なく言えていた。

ああ、なんか良いなぁと思った。

これまで、私は私で「今日も●●ができた、さすが私☆」と些細なことで自分を褒める言葉を意識的に口に出すようにしてきた。が、その人を見ていて新しく氣付いたことが2つあった。

 

1. 私なんかが「天才」だなんて自分に言っちゃったら人に馬鹿にされる。笑われると、また架空の世間の声を、妄想の誰かを自分の中に作り上げている

 

2.前述の「なんなの私ってそこまで変!? それともこいつ(orこいつら)が馬鹿なの!?」の続きに、実は「でも、馬鹿呼ばわりされていい人なんて本当はいない。見下されていい人だっていない。私もそうだし、(その時の)相手もそうだ。誰かのことをそんな風に思いたい訳でもない」

という氣持ちも確かにある。

 

で、サラッと「俺、天才だからね☆」って言えちゃうスタンスをいいなぁと思ったので(※天才だから〜と驕っている態度でもなく、天才ゆえに苦悩しているというニュアンスでもない)、試しに私も唱えてみたのだ。

今まで「なんなの私ってそこまで(略」という氣持ちになった時のことをいくつか思い出してみた。なるべく細かく思い出してみた。その当時の自分になったつもりで、「ま、私天才だからしょうがないね☆」と唱えてみた。

 

そしたら、あらびっくり。自分のことも責めなくて良い、他人のことも責めなくて良い、めちゃくちゃ素敵で快適な言葉じゃないか。

「仕方のないことなんだから我慢しろ」とか無理やり自分に言い聞かせるんじゃなくて、心からしっくりと「ま、しょうがないね」と、ストンと納得できた。

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「変」なのはもう自分でもどうしようもない。

「変」なことを見下さずにいてくれる人や攻撃せずにいてくれる人のほうがはるかに少ないのも現実。

その二つの間に、私にとっての安全な橋を渡してくれるのは「ま、私天才だからしょうがないよね☆」とテキトーに言っちゃうことだった。高田純次的な?

 

だからこれからは時々、意識的に言葉に出すことに決めた。「私、天才だからね☆」と。

40代、50代になった時に、高田純次みたいなテキトーでナイスなおばちゃんになれていたらいいなぁ。

いい話に直接無粋な突っ込みを入れないくらいには大人になった

 

ある人「(要約)夫婦間ではとにかく話し合いが大事。ただの対立になってしまわないように、お互いの要望をきちんをさらけ出して、しっかりディベートする。うちではとにかく冷静なディベートを心がけて云々」

私「(それはディスカッションではないだろうか)」

 

 

問題解消の役割を第三者が持つ ディベート

問題解消の役割を当事者が持つ ディスカッション

 

ディベート」という単語が出てくるたびに、ふつーの家のリビングに謎の第三者が3〜5人くらい横並びに座って『夫』『妻』の札を持っているような絵面が浮かんでしまい、口がにやけそうになるのをずっと我慢していた。

言ってる内容はとても良かったと思う。

ていうかもう日本語で『議論』か『意見交換』あたりでいいと思う。

【感覚過敏】服の締め付けが物凄く苦手だけど、ストッキングやタイツがないと寒い問題

感覚過敏がだんだん酷くなっていて、着られる服のパターンが限られてきた。

今はもう、パンツ系(ズボンのことね)がもんのすごく苦手だ。

 

どんな感触を苦手とするかは人によって全く違うが、私の場合はとにかくかっちりしたものや肌に張り付く感じが苦手だ。薄手のインナーが肌にぴったり張り付く感じも辛い。冬物のトレーナーやパーカーのような重い素材も辛い。脚と腕の内側に何かぴたっと触れてる感じが嫌だ。

なので私がとにかく感覚的に楽かどうかを基準に選ぶと

「ゆったりめの柔らかいスカートめっちゃ楽!!!スカート最高!!!!」

となり、結果的にフレアっぽい軽い素材のスカートや、ゆるく柔らかいワンピースばかり選ぶようになった。

(↓ここまで乙女っぽくはないけどシルエットとしてはこんなイメージ) 

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重い素材も辛いので、同じスカートでも制服は辛かった。制服必須だった10代のころの方が今よりはるかに疲れやすかったと思う。

 

いま、私服として軽い素材のスカートばかり履くようになって氣付いたのは、秋〜冬なら黒いストッキング、春〜夏なら肌色ストッキングにシンプルな靴を合わせておけば、ほぼどんな場所にでも適しているということ。(※アウトドア以外)

選択の面倒くささがない。30代の服装としても無難だ。無難な服装ができていると目立ちにくくなる。私はとにかく埋没できるようになりたいので、目立ちにくくなれる服と身体的に楽な服が一致しているのは幸運だった。

 

デメリットは、ストッキングやタイツがないと冷えちゃうけど、ストッキングもタイツも触覚過敏的にはまぁまぁ辛いということ。私的にはズボンよりはマシだけども…(軽いから)。

ゆるっとした服って隙間があるので、下に着込んでおかないと夏以外はだいたい寒いのだ。できる限り楽なものを選んでも、ある程度は下に重ねることになるのでそこそこ締めつけ感が生まれてしまうというジレンマがある。

ぶっちゃけ下着も辛いんだけど、ノーブラで出歩く度胸はないので仕方なく着けている。もしかしてフルオーダーで徹底的に自分の体に合う下着を作ればもっと楽なんだろうか? やったことないので分からないけど検討してみようかな。

 

ちなみに、感覚過敏で逆パターンの人に出会ったことがある。

その人も女性だが、軽い素材がふわふわ動いて腕や脚にまとわりつく感触が物凄く辛いらしい。スカートの裾が脚に当たる感覚も苦手だと言っていた。なのでスキニージーンズやタイトなレザーのような、体のラインにぴったり張り付いて布がほぼ動かない服装が一番楽なのだそうだ。同じ感覚過敏でもまったく真逆だなぁと驚いた。

(制服のスカートが辛かったという点では、理由こそ違えど一致した)

 

何が楽かというのは本当に人によって違う。色々試してみないと分からない。

たぶん、そういう知識のない健康体の大人からすると、産まれた我が子が感覚過敏を持っていて、あの服が嫌だこの感触が嫌だという子供だったら途方にくれるのだと思う。

なのでせめて、こうやって定期的に発信しておく。感覚過敏というものがあるのですよ〜と。偶然誰かの頭の隅にひっかかっておいてくれるだけでも、それが誰かを助けることもあるかもしれない。  

 

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もうね、部屋着が一番好きだ。ゆるーいワンピースにゆるーいソックスで事足りるのだから。寒ければ湯たんぽ使ったり暖かい飲みもの飲んだりしておけばいい。

私が自主的に望んでインドア生活している理由の6割くらいはそれだ。「外にいるだけで疲れる」みたいな話をたぶん過去にも書いているが、雑音や光の刺激のせいだけではなく「服を着ているだけで疲れる」も理由のひとつ。

我慢はしているけど、正直言えば一時間も経ったらもう早く帰りたい。その時の用件がどんなに楽しいものであれ、服を早く脱ぎ捨ててしまいたくなる。

 

発達障害と感覚過敏の件を知るまでは、みんながそうなんだと思っていた。

みんな同じように服の辛さを我慢していて、耐えながらも涼しい顔で日常生活や学校生活や仕事をこなせているのだと思っていた。我慢するのが辛くてすぐ疲れ果ててしまうような私が根性なしでおかしいんだと思っていた。

そうじゃないと知った時はけっこうショックだった。じゃあ私がこれまで信じ切っていた自罰思考ってなんだったの!? と。「みんなと同じような服をちゃんと着て同じように耐えなくては」なんて考えは私の体にとってあまりに非合理的だった。自分の感覚に合わせた服を探すことがもっと早くできていれば、と。

 

ショックではあったけど、でも、じゃあ自分のセレクト次第で変えて行けるんだという希望もとても大きかった。

なんというか、診断されて当事者たちの知恵に触れることができるようになってから、はっきり「自分(の感覚)とは?」を探すことができるようになったのだと思う。

 

一昨年くらいから助かっているのは、アウターとしてゆる〜いシルエットのコートがトレンドになっていること。

トレンドになるということは、どこにでも売っているから色んなお店でたくさん試して楽なのを選べるということだ。(実際選べた。着てて本当に楽)。

これは心からありがたかった。従来のコートってかっちりしてるものが多かったので、服を着た上に重ねると窮屈で辛かった。いまはゆるいシルエットのコートにとても助けられている。

ファッション業界の人たちは、まさかこんな形で感覚過敏の持ち主がひとり助かっているとは考えもしていないだろうけど 笑 

私としては、あのゆるいコートをトレンドにしましょうと仕掛けた方々に御礼を言いたい。

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この記事においては、服を自分の特性に合わせて選ぶ大切さを伝えたくて書いているつもりだ。

ただ、住んでいる地域によっては、服装を変えていくということ自体、かなり度胸がいるかもしれない。

私もかなりの田舎出身なので、前述の『私にとってめちゃくちゃ楽な、トレンドのゆるいコート』をもし地元で着ていたらとてつもなく浮くという想像はつく。田舎の悪目立ちのデメリットがどれだけ大きいかはよく知っている。

 

が、それでも感覚過敏がある場合、過敏さに合わせた服を選べていない辛さも結局は大きい。じゃあ、どっちを選んだ方が自分にとってマシだろうか? と自分に問うてみたことはあるだろうか。

惰性で今までと同じ服をなんとなく着てしまうのではなくて、今あるその服で本当に大丈夫? その服を選ぶことのメリットとデメリット、どっちを選びたい? と。

自分に定期的に問うているかどうかで、こういう体質にとっての生きやすさが変わってくると思うのだ。

「◯◯だと馬鹿にされたくないから頑張るってことは、『◯◯は馬鹿にされるもの』っていう価値観をあなたも受け入れてるってことじゃないですか」

録画してある『冤罪弁護士』というドラマをまとめて観ていたら、そんなセリフが出てきた。

厳密には

キャラ1「母子家庭だって馬鹿にされたくないから頑張ったんです」

主人公「母子家庭だって馬鹿にされたくないから頑張る。ってことは、『母子家庭は馬鹿にされるものだ』っていう価値観を、キャラ1さんも受け入れてるってことじゃないですか」

(責めるニュアンスではなく、不思議そうに)

一緒に観ていた夫が、驚いた顔で私を振り向いて

「えっ、夕暮っぽい!! 今のセリフめっちゃ夕暮っぽい!!」と言った。

(※このブログ主のHNは『夕暮』です。出す頻度が少ないので自分でもたまに忘れそうになるが)

 

なので「私っぽいっていうか、そういう種類の考え方みたいなのがあるんだよ。私はそれを採用してて、このドラマの脚本家さんも主人公にはその思考回路を持たせてるんだね」と答えた。

www.ntv.co.jp

私は、このキャラ1のようなパターンを『条件付きの自己肯定感』と勝手に呼んでいる。

努力して社会的立場や収入といったものが向上しても、「◯◯だったら馬鹿にされてしまう」「◯◯は世間に認めてはもらえないものだ」という価値観自体は変わっていないパターンのことだ。

私は、この条件付きの自己肯定感が自分の中で育ってしまわないように物凄く注意を払っている。ただでさえ色んな認知が歪んでいるので脆いものにすがるデメリットが大きすぎるというのもあるし、その条件付きの自己肯定感を持っていると、自分のせっかくの努力の成果を他人にマウントとる材料にしてしまいかねないからだ。

 

というのも、私は基本、そのマウントとられる側になりやすい。

自閉症スペクトラムあるあるで、あまり笑わない・表情が動かない・声に抑揚がない、といったことを全部昔っから地でやっているのだが、これがどうも、一般的には『あまり笑わない=孤独と闘う可哀想な人』に見えるらしい。で、この子を助けてあげなきゃ、救ってあげなきゃ、変えてあげなきゃ。という人が定期的に寄ってくる。

幸いなのは、初見の印象がそうだとしても、実際にちょっとでも深く話せばこういうややこしい性格で、とことん我の強い人間であるということ。なので「救ってあげなきゃ」で寄って来た人が私の近くに残ることはまず起きない。

    

とっっっっっても良い風に解釈するならば、「他人を笑顔にさせてあげなきゃ」という優しい精神の人がこの世には多いんだろう。

で、なんでその優しい精神がマウントに発展しちゃうのかという点。原因としては「本人も条件付きの自己肯定感しか持っていないからだ」と、長年観察してみて分かった。

俺/私と同じ道筋をたどって同じようにならなくては世間に認めてもらえないよ? 幸せになれないよ? 明るい未来なんてつかめないよ?? 私達が到達できた『正解』側に来ないとお前は不幸になっちゃうよ〜〜〜!

という脅しを、言葉の端々に含んでしまうのだ。

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私の場合だと、その脅しをチラチラさせてくる人達の共通点は、頭が良かったり何かの才能があったり行動力がすごかったりで「いいとこ」まで行けてる人達だった。特定の組織内での立場もけっこう良かった。

条件付きの自己肯定感でも「いいとこ」まで行くこと自体は可能なのだ。冒頭の「母子家庭だと馬鹿にされてしまう。だから、良い大学に行けるように頑張って、実際に法学部に合格して、弁護士になった」というキャラクターのように。

 

が、自己肯定感が相変わらず条件つきのままだと、条件を満たせなくなることが常に恐怖の対象になってしまう。

「◯◯ならば認めてもらえる、✕✕ならば幸せになれる」は「◯◯じゃなくなったら認めてもらえなくなる、✕✕でないと不幸になる」と常にセットの概念だ。そうなると、自分が設定してきた条件にそぐわない他人を見かけたとき、変えてあげないと落ち着かなくなるらしい。

そういう人にとって、「◯◯の条件は持っていないけど、けっこう幸せ」という存在自体が想定しがたいか、あるいは耐えられないか。そんなものが存在できてしまうなら、その人のそれまでが否定されるようなものなのだろうと推測する。

 

私も、何歳になっても今後どのようにライフスタイルが変わっていっても、常に自分をよーく観察し続ける必要があると思っている。

『変われた』『向上できた』というのが

状況や他人に左右されぬ自己肯定感を育むことができた なのか

見下される側から見下せる側に上がることができたので安心していられる なのか。

 

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じゃあ、自信と自己肯定感ってどう違うんだ、ということについて。

自信というのは「自分は◯◯をできる」と知っていて、必要なことのために行動出来ると自分を信用していられる。そういう状態を得ていることだと思う。

一方で自己肯定感というのは、何かをできる・できないとはまったく関係ないところにある。

 

この違いは、就活をイメージしてもらえると分かりやすいかなと思った。

「(大学でこういうことをやったので)皆が使いやすいシステムを作り出すことにかけては自信があります」

「笑顔と健康には自信があります」

のように、自分に出来ることを宣言する時にも使われる。その使い方で意味が成立する。

しかし自己肯定感の方はというと

「皆が使いやすいシステムを作れるから自分を肯定していられます」

「笑顔と健康があるから、自分を肯定していられます」

これでは、自己肯定できていますという意味としてはまったく成立しない。

 

就活で内定をもらえても、もらえなくても、自分の存在価値とは無関係。

採用通知がきたから価値があがる訳でもなく、不採用通知が来たから価値がさがる訳でもない。

就活の手応えや結果がどうだろうとまったく無関係に、自分は生きていていいし、好きな時に楽しんでいて良い。

というのが自己肯定感なのだろう。

 

受験や就活で失敗してしまって自殺するというのは、「失敗したから」が原因ではなく

「ちゃんと内定をもらえて新卒で就職という条件を満たせない自分には価値がない」

という『条件付きの自己肯定感』の世界しか知らなかったからだ。

 

念のため言うと、条件付き自己肯定感で自分を脅しながら頑張ってきた人がいるならば、そういう人にパワーを貰えるようで好きという人もいる。実際、条件付き自己肯定感のデメリットをはねのけて成果を出せるほどのバイタリティに溢れている訳で、しっかりニーズがある。

というかニーズは100人いれば100人それぞれにある。私を嫌う人が大部分の中で、好いてくれる人もいくらかはいるように。

 

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ところで私は残念ながら、実の家族から「いらないもの」「ダメなもの」「何をやっても構わないモノ」とみなされていた。

だからすごく自己肯定感が低いのか? というと、昔はそうだった。

しかしそれはそれ。今はもう、親に愛されなかった事実と私自身の価値は無関係であると知っている。

現実に、家族というのはせいぜい2人から多くても10人程度だろう。全世界に70億人(2011年調べ)もの人間がいる中で、たった2〜10人の感性が私を愛さなかったからといってなんだというのか。

2冊〜10冊の本を読んだ程度で、世界の全てを知れたことにはならない。

 

もっとも、あるていど大人になってから自力で自己肯定感を育もうとすれば、小さな自信を得られるような小さな成功体験が必要になる。なのでおそらく、そこでも誤解が起きやすいのではと思う。

元々が自己肯定感に乏しい人ほど、「やってみて→出来なかった。あぁ自分はやっぱり駄目なんだ」と心が折れてしまう。

 

成功体験云々というのは

「やってみようと思って、実際やった。AはできなかったがBはできている。それに、やってみようと思えただけでもすごいよ俺」

というふうに、結果の出来不出来とは関係なく、ごく小さな部分でいいから自分の良いところにフォーカスする練習手段として、そのためにまず何かやってみよう、と推奨されるのであって

「立派に100%成功させられなかったから、やっぱり自分はだめなんだ」

と心をブチ折るために推奨されている訳ではない。

(だいたい、全部が全部必ず思い通りに上手くいくなんてそう都合の良いことは起きない)

 

何かやろうとした中で、結果や成長具合がどうであれ必ず何か自分の良いとこ見つけられるよね。そういうものなんだよ、という思考を育む訓練のためだ。

目的と手段を混同しないよう注意である。

 

条件付きの愛を突きつけられながら育ってしまった人はものすごく多いと思う。が、だからといって条件付きの自己肯定感を自分に課さなくたって良いのだ。